粋に行こうぜ、粋に。

 「コミケなんかいらない 〜増長するマニア達〜」

 思い切った文章です。
 見つけてしばらく心の中にとどめてきましたが、反応してるサイトを見かけるようになってきたので、ここで自分の思うところを。

 反対も何も、至極正しい警鐘であります、と申し上げたい。
 モラルって言うかねえ、分別というか、「空気読め」というか、貪るだけじゃなくてハートでリッチになろうぜ、粋に行こうぜ、というか。

 同人誌にしろ路上ライブにしろメイド喫茶にしろエロゲ屋のエロポスター掲示にしろ、要はオタクの妄想を現実化するというサービス商品(文字通りの商売であるかは別の話)な訳ですね。
 それは夢ですね。目の前にそれがあったらどんなにいいことか。
 でも、世界がそればっかりになっちゃ、それが当たり前になっちゃ面白くもなんともないだろうとも思うのです。
 岩田さんもいつかどこかで書いてたような気がするけど、要は「ハレ」と「ケ」、お祭りだと思うのですよ。無味乾燥な日常があるからこそ、非日常の素晴らしさありがたさが解る。非日常の喜びがあるからこそ、そこへ繋がる日常を愛することができる。
 今は亡き秋葉原ゲーマーズの巨大でじこ看板、あれは何が素晴らしかったって、巨大でじこイラストそのものではなく、手前に重なるI・O・データの看板の所在無さ、その対比が可笑しかったんではないかと。軒を並べるオタクショップばかりが注目されるけど、日通/東京三菱の真っ黒い無表情なビルもまた、ランドマークとして愛すべき風景なんではないかと。
 どこかで、区切らないと。ナアナアで取り込まれ流され始めたら、あとは食いつぶすしかなくなります。節制は大事ですよ、節制は。

 自分、もちろん手に入らない同人誌だっていっぱいあります。でもその時は「その本と縁がなかったんだな」と諦めてます。全部手に入ってしまったらそれで満足するのか、と考えると、どうせまた欲しいものが出てきて切りがないんだろうな……という想像が付くんですよ。
 だから、たまには、「手に入らないもの」があってもいい。むしろ夢として、憧れとして、次のチャンスに立ち向かうための原動力として、「手に入らないもの」をあえて作るようにしている……という気がします。(これ、今思い直して気が付いた事なんですが)
 河口湖で放流されたバスを釣ることはできる。でも夢見るのは、北米の大自然の中でキャンプを張りながらの釣り三昧。
 ボトルで買い揃えたスコッチを自宅で飲むことはできる。でも夢見るのは、本場スコットランドに長期旅行しての現地の地酒(=スコッチ)の飲み歩き。
 釣れるもの飲めるものは、どっちも同じです。でも、究極の真髄といえるのは後者でしょう。後者をより素晴らしいと思い、そこに近づきたいと思う心が大切だし、後者を夢見ることをやめてはいけないと思うのです。
 何でも手に入る時代です。でも、手に入っても幸せになれない時代でもあります。ならば、まず何でも手に入れようとするのではなく、不可触な領域を作りそこにロマンを見るという作業がこれからは要るのかも知れません。江戸っ子の痩せ我慢の心意気を再び、不公平で意地悪な世を生き抜くために、わざと無理して自分自身を笑う、みたいな。
 ロマンですよ、ロマン。